塾生が情報発信するこのHP。なかなか斬新ではないかと我ながら思っている。書くということは、言語能力を鍛えることに繋がる。また、思春期特有の承認欲も満たせる。
私について言えば「WEB上に書く」ということを中一くらいからはじめている。そして未だに書いているあたり、思春期特有の承認欲が満たされないまま、ここまで来てしまったのだ。だいたい、塾の名前に自分の名を入れるあたり、顕示欲をこじらせているのかもしれない。
それはさておき、書くということについて「何を書くのか」は大事だろう。書いたことを通じて、その人の人間性が滲んでくる。魅力である。自身から出た言葉、声、表現は、魅力になる。興味になる。
だが、表現を誤れば、つまらない人間という烙印(らくいん)を押され、イタいだけ人間になる。読者に「だからなんやねん」と、言われるようなライティングを塾生たちがしないように、という助言的な記事である。
つまらない人間は自分の〇〇を語る。
ツイッターでもフェイスブックでもブログでも、読んでいて退屈な文章というのは、主にその人の内面を語ったものだ。翌日読み直して恥ずかしくなるのは、あの頃が黒歴史になるのは、自分の内面を語っている文章である。
なぜポエムが黒歴史になるのか。それは内面を語っているからだ。
例えば
と言ってきたとしよう。「へぇ。そうなんだー(私には関係ないな)」で会話のキャッチボールが終わる。もし相手が加湿器の回し者なら、加湿器を売りつけてくるかもしれない。それ君の中での話じゃん、で基本終わる。
トークの役割は、共感や価値の共有である。ちなみに、コミュニケーションの役割は目的の達成である。上記の発言は、相手にとって意味がないのだ。相手が優しい人ならそこから話題を広げてくれるだろうが、退屈な人だな、という見方は変わらない。
上記の退屈なトークをどう魅力的にするか、具体例を書いておく。
こんな感じにすると、「え、なにそれ?」と興味を抱くようになる。
内面を語ってしまう心理
自身の内面を語りたがる人は、心の奥底では、他人は自分の全てを受け入れるべきだと思って人と接する傾向にあって、決まって幼い。だから反論されるとひどく傷ついたり、敵意を顕(あらわ)にしたりする。それで「誰も信じられない」とツイッターで呟くのだ。それは信じてたのではなく、甘えていただけなのだが。
内面は出しても良いが、それをどう価値に繋げていくかが肝要。すると、内面情報と価値情報の割合が1:9とか2:8になるはずだ。取っ掛かりとしての内面か、アクセントとしての内面をちらりと出すのが魅力的だ。
人が読めるものにして発信していこう
泥だらけのじゃがいもはそのままでは食べられないから、洗って皮を剥くように、自分から出ていって誰かに渡すものは、一度きれいに、清潔に加工する必要がある。ありのままをそのまま発信するのではなく、人が読めるものにして発信していこう。